略歴
東京大学公共政策大学院 客員教授/IHI株式会社社外取締役/日本取引所グループ社外取締役 1982年に上智大学文学部心理学科を卒業後、日本工学工業(現ニコン)入社。結婚を機に退職して86年からウナギ店勤務。89年、笹川平和財団に入職後、世界的な経営学者ピーター・ドラッカーによる非営利組織の事業評価方法論と出合い研究をスタート。94年、慶應義塾大学政策・メディア研究科で修士号を取得(第一期生)。2001年から国際協力銀行評価室参事役。2002年に大阪大学で国際公共政策博士号を取得、2003年東京大学工学系研究科客員准教授。2006年大学改革支援・学位授与機構准教授、のち教授。2012年から毎日新聞と共催でエクセレントNPO大賞を創設・運営、2019年から会計検査院検査官。2024年から2025年3月まで会計検査院長。
1880年(明治13年)の創設以来約150年の慣習と伝統を守り、国会、内閣、裁判所のいずれにも属さない独立国家機関である会計検査院。その秘伝の業務内容に大胆なメスを入れたのが、前会計検査院長の田中弥生氏だ。上智大学を卒業した1982年、伝統的大企業に総合職として就職したのがキャリアの出発点。結婚後に受けた人事異動をきっかけに大企業を飛び出したが、好奇心と信念で挑戦と失敗と成功を繰り返しながら実績を積み、唯一無二のキャリアをものにした。 非営利団体職員時代に世界的な経営学者であるピーター・ドラッカーに惚れ込み、「体当たり」で渡米。ドラッカー邸の近くに夫と住み、当時最先端だった非営利団体の評価法を全力で習得した。田中氏に、日本では知られていなかった「公共事業の評価」という先進的な専門性を独力で育み、実務に落とし込んできた歩みを聞いた。
――2024年1月に女性として2人目の会計検査院長に就任後、「国民目線」など5つの目標を打ち出して明治以来の伝統が残る組織の業務改革に尽くしました。ご経歴を見ると、日本工学工業(現ニコン)の後にウナギ店勤務とあります。
田中弥生氏(以下、田中氏) ニコンは総合職として入社しましたが、女性社員は制服着用が義務で、お茶くみ当番がありました。男性社員が来る前に出社し、朝9時から50人分のお茶配り、回収、昼食配り、回収、3時のおやつとコーヒー、午後5時の片付け。お砂糖ミルクとか、コーヒーを2杯入れる人とかすべて覚える。タバコの吸い殻の回収も含めた作業が日課でした。
――総合職でもお茶くみ担当だった。
田中氏 1982年は、男女雇用機会均等法ができる前です。男女同じ仕事ができることを期待しましたが、2年、3年と経つと、いつのまにか同期の男性の方が、責任範囲の大きな仕事を任されている。結婚した時、結婚式で上司から「早く子どもを作って辞めたほうがいい」と言われました。新婚旅行から帰国すると、ほどなく海外宣伝部から社長室に異動になりました。会議に次ぐ会議、それこそお茶くみばかり。もっと責任ある仕事をしたいという思いで、思い切って退職したのです。
ウナギ店で培った観察力
転職先に当てがあったわけではありません。当時の夫の実家がウナギ店でしたので、退職後しばらく働くことになりました。当初、私は大学で学んだことを使って、色々と貢献できるに違いないと考えていました。ところが、ホールではお客様が来てもぼーっと立っていることしかできない。店頭では、蒲焼きの串の抜き差しがうまくいかず20枚以上、壊してしまう有様。周りの人はきびきびと働いているのに、私は失敗ばかりでした。裏方の仕事に配置替えになりましたが、経理ができず役に立てなかった。
あるとき、社長である義父からスーパーで買ってきたウナギの蒲焼きの真空パックを渡され、いつダメになるかずっと見ていろと言われました。賞味期限が来ても全く問題ない。すると義父が、鰻の真空パックのメーカーに電話してなぜ大丈夫なのか聞いてみろと。指示されるままに聞いてみると、メーカーの方は「賞味期限は少し慎重に設定しているんです」と教えてくださった。すると義父は「じゃあもうしばらく見てろ」って。さらに見ていたら、5日ぐらい後にぷわーんと膨らんできたのです。なるほど、食品を扱う企業の姿勢を垣間見た気がしましたし、何よりも、自分の眼で確認することの大切さを実感しました。
そこから、何事も自分で観察しながら確認すべしという現場主義をたたきこまれたように思います。頭だけで考えても分からないことがたくさんあるのです。ほどなく笹川平和財団に入職しましたが、何事も自分で確認することは以来、信条であり続けました。
なぜ、成果に差が出るのか
――笹川平和財団ではどのような仕事を担当したのですか。
田中氏 フィリピン、東南アジア、東アジア、中欧、南部アフリカの非政府組織(NGO)に対する補助金を担当しました。8年ほど各所からの提案に対応するうち、同じような提案で、パフォーマンスに大きな差が出ていることに気づきました。しかもその差がうまく言語化できない。どう評価すべきか悩みました。そんな時、世界的な経営思想家ピーター・ドラッカーが書いた『新しい現実 〜政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか〜』(ダイヤモンド社、1989年)に出合い、衝撃を受けたのです。
ピーター・ドラッカーに体当たり
ドラッカーは、非営利団体(NPO)が「(人々に)市民としての意義ある役割を果たす場を与えている」と書き、東西冷戦後にNGOやNPO、ボランティアが活躍する俯瞰した未来像を書いていました。歴史観と世界観に強く引き込まれ、「この方には絶対会おう」と決意。早速、ドラッカーが登壇する米国ダラスで開催されたシンポジウムに向かいました。朝早く会場に出かけ、舞台の大きな椅子にドラッカーが座っていました。本にサインをしてもらい、ぜひ日本に来てくださいとお誘いしました。でもこの時は「もう歳だから長旅はしない」とお断りされてしまいました。
その後、ドラッカーの書籍を数多く出版しているダイヤモンド社と協働し、93年に日本へお招きすることができました。以後、ドラッカーとはファクスで研究や実務についてやりとりをする関係になりました。
関心が深まり、94年に慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程に入学し、非営利の研究を始めました。ドラッカーに相談したら「米国で勉強すれば?」と。そこで、修了に必要な単位を全部1年目に取り、2年目は米カリフォルニア州にあるドラッカー邸の隣に家を借りて夫と渡米。1学期間、クレアモント大学の経営大学院(ドラッカースクール)で学びました。そして、クレアモント滞在中に、ピーター・F・ドラッカー著『非営利組織の自己評価手法』(ダイヤモンド社)の翻訳をしたのです。大学院で学び、ドラッカーの傍で翻訳をする、この経験が、後のキャリアを通じて大きな武器となりました。
――企業、財団、政府系金融機関、大学教授を経て2019年、行政機関を評価する会計検査官に転身しました。
田中氏 官邸から突然電話があり、会計検査官就任を打診されました。しかも2週間で決めろと。大学の仕事、社外取締役、エクセレントNPO大賞(新聞社と共催で自ら立ち上げ)、個人事業などですべての役職を辞さねばならず、大変でした。
「あなたたちは何をしているのですか」
――2024年に会計検査院長に就任しました。最初に取り組んだのが広報改革でした。
田中氏 きっかけは、2019年に参加した経済団体の会合です。伝統ある大手金融機関の元会長の方が私に「私たちは、今財政の独立した会計監督機関を作りたいと議論している。ところが、会計検査院があるという。だが、ちっとも情報が伝わってこない。あなたたちは何をしているのですか」と聞いてきたのです。元会長が持参した資料を見ると、会計検査院が「会計検査委員会」と、役所の委員会のように書かれていました。会計検査院は明治以来の歴史と伝統があり、スタッフも天皇の認証式をもって就任する独立した財政の監督機関ですよ。ショックを受け、もっと知っていただかなければと強く思ったのです。
「生き残ったサンショウウオ」
ある検査院OBは「いや、我々はいわば、明治時代から第一次世界大戦、第二次世界大戦、と戦火をくぐり抜けて生き残ったサンショウウオ。仕方ない」などとおっしゃる。検査院の職員も、なぜ広報する必要があるのかという雰囲気です。私が国民への説明が必要、とたびたび訴えても、受け止めてもらえませんでした。
様々な財界トップの方に相談したのですが、中でも就任前に、国鉄分割民営化の三銃士と呼ばれたJR東日本の大塚陸毅さんに伺ったお話が参考になりました。大塚さんは「これは」という見どころのある職員を20人選び、トップと話す機会を設けた。すると彼らがたくさん意見を出した。その20人が後に40万人の組織を動かす改革の旗手になったと。
そうであるならば、10人集めれば、会計検査院の改革の旗手をつくることができるかもしれないと思いました。私は会計検査院に戻り、旗手になってくれそうな人材をピックアップしました。あっという間に14人の名前が浮かび、一人ひとり、部屋に呼んで話をしました。ただし、1年後には退官しなければならないので時間がありません。そこで、彼らと共有し、残せるものは何か考えました。
組織経営の知恵を会計検査院に
私は、「組織の経営において営利、非営利の違いはない」というドラッカーの教えを信じ、検査官になってからも企業の経営経験者によく助言を頂いていました。そのプロセスを旗手たちと共有しようと思ったのです。そこで私的な勉強会「会計検査院の未来を考える会」を立ち上げ、経営経験者や有識者8人、検査院の職員14人で、会計検査院のガバナンス、マネジメント、広報改革、検査報告などについて議論する場を作りました。最初、財界の著名人を前に、緊張でがちがちになっていた職員でしたが「限界から考えるのはやめなさい」というある経営者の一言で、見違えるように生き生きと話すようになっていきました。
また、経営経験者の助言もあり、院長就任にあたり、職員と1対1で話そうと目標を立てました。1250人ぐらいいましたが、強制ではなく挙手制にしました。組織別では上司がいて若手が話しづらいと思い、年齢別にしました。最終的には300人くらいと話しました。そこから、職員には組織外のネットワークが必要だと気づきました。
同時に、会計検査院のメディアでの露出度を上げるために、院長の私がメディアのインタビューを数多く受けることから始めました。大手新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、小学生新聞まで、可能な限りお話させて頂きました。初めてのことばかりです。広報室も戸惑ったことでしょう。広報室長が後方で同席するのですが、きわどい質問になると急に立つ。発言を控えめにせよ、という合図です。それくらい慎重なスタートでした。
――広報に対するムードが変わったのはいつごろですか。
田中氏 院長になる前から、その下地は作っていました。新型コロナウイルス禍の2022年に転機が訪れました。米国赴任から帰国した30代の職員が、外務省の活動から広報の重要性を学び、会計検査院の認知度の低さに問題提起をしてきたのです。そこでメディア関係者とオンライン勉強会を立ち上げました。電通アメリカ(当時の日本人社長が参加)、国内の日本テレビ、日本経済新聞、そして先進的なデジタルトランスフォーメーション(DX)に取り組んでいたハースト婦人画報社を招待し、検査院職員を含めた8人で勉強会を始めました。メディアは社会部系の方が多く、「何が言いたいか分からない」「検査報告書にメッセージがない」「伝える気があるのか」と矢継ぎ早に厳しい質問を投げかけてくる。お通夜のような心境でした。
普段、行政のトップクラスの方たちとしかお付き合いしていない職員たちが、いきなり初対面の民間の方から厳しい質問を浴びたのです。勉強会が続かなくなる危機感を覚え、職員を一人ずつ呼び、「言いたいことがあったら何でも話して」と声がけしながら必死にフォローしました。何とか活動を続け、半年後にはメディアの方達から「国費の使い方に真摯な組織」「日本の良心」とまで言っていただけるようになりました。
職員たちの自尊感情も回復。報告書をまとめて正式な「広報戦略勉強会」ができました。幹部層はメディアの論説委員や記者と定期的に懇談の場を持ち、若手職員中心のデザインチームで資料の作り方を変えたり、データを調べやすいようホームページを改善したりしました。すると報道件数が飛躍的に増えました。
戦後80年続いた慣行を大改革
とはいえメディアに会計検査院の活動を適切に取り上げ、社会に発信していただくには、根本的な障壁がありました。戦後約80年にわたり、11月第一週にすべて同時に検査報告を発表してきた慣行です。このタイミングを目指して検査の調査日程やプロセスがすべて設定されてきた。スケジュールを大幅に変え、分散させる必要がありました。メディアの多くから、「一度に大量に発表されてはタイムリーな記事にできない」との話を聞いていたからです。
明治以来の慣行を変えるのですから、内部の動揺は大変なものでした。自分たちだけでなく、相手省庁を含めたスケジュールを動かさなければならないからです。中には「そんなことを考えるくらいなら辞めた後の就職先を考えた方がいい」と言ってくる人までいました(笑)。
そんな時に読売新聞からインタビューを受ける機会があり、「会計検査院の調査スケジュールや検査報告時期の平準化を進めます」などと話しました。すると記事を読んだ与党の女性議員が国会で私に質問してくれました。私が「できるところから実施する」と答弁したら、議員が「総理、院長はやるって言っていますよ」と発言して、当時の岸田文雄総理に省庁への協力要請を促してくれました。
大手メディアに報道されたことが多くの方の注目を集めるきっかけとなり、国会議員の質問の呼び水となり、議事録に残りました。外堀が埋まって改革の足がかりを築くことができたのです。公共機関の組織改革を前に進めるには、メディアからの理解と協力が極めて重要と痛感しました。
――2026年は「財政評価・改善論」を担当されますが、経済学、法学、経営学、政治学など社会科学の主要な要素がふんだんに盛り込まれたシラバスですね。
田中氏 財政について、基礎的な理論を抑えた上で、予算編成の仕組みと過程、さらに予算執行と評価や監査を一巡する講義が欲しいと思ったのです。まさに財政のPDCA(計画、実行、評価、改善)ですね。ここでは、理論と座学、さらに会計検査の実務を擬体験するワークショップの場も設けました。 私のキャリアは、NGO支援から始まり、ご縁の積み重ねで社会事業や政策の評価、そして会計検査院検査官へと発展していきました。現在は日本取引所グループ(JPX)やIHIの取締役も務めています。一貫しているのは、社会をどう具体的に良くしたのか「評価」するというライフワークです。興味深いことに、非財務・非営利分野の評価論は、NGO、行政府機関にも適用できます。おそらく、企業の社会貢献分野も可能でしょう。裏付けのあるものさしで政策を評価したうえで、事業や活動によって生まれた成果を社会に知ってもらう必要もあります。 また、政府部門を対象にした政策評価は、行政の改善のみならず、納税者であり有権者である国民に政策の結果を伝える大事な道具でもあり、本来、民主主義社会をより良くすることにつながるとても知的な仕事だと思います。その醍醐味が伝わる実践的な講義を展開していこうと考えています。
制度や前例から考えるな
――学生、社会人の方にメッセージはありますか。
田中氏 これから活躍する世代の皆さんに伝えたいのは、制度や前例といった限界から考え始めないでほしいということです。私が改革にあたって相談した経営トップの方から教わったことでもあります。何を実現しなければいけないのか、そのために何をする必要があるか、という順番で考えなければ、プロジェクトは成り立ちません。また、大きな権限を持つ組織のトップを担ってみて、痛感しましたが、組織の内外に理解者、サポーターを見つけて、物事を進める順番を間違えないことです。組織の中で誰が本当に影響力を持っているのか、どこに本当の情報があるのかを見極める必要があります。これも、私が無数に手痛い失敗をしながら学んだことです。
(聞き手・構成=広野彩子、慶應義塾大学総合政策学部特別招聘教授)