「遅くまで出かけるなら、スカートじゃなくてパンツをはいたほうがいいんじゃない」。幼い頃、家を出ようとする私に、母は口癖のようにこうアドバイスしていました。母の心配を理解していたので、帰りが遅くなると分かっているときはミニスカートを避けるようにしていました――学部時代のジェンダーとセクシュアリティの授業で「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」という概念を学ぶまでは。それ以来、ジェンダー不平等を含むほとんどの社会問題は、個人の選択の結果ではなく、むしろより広い構造的な不正義の一部なのだと理解するようになりました。そして、社会課題を解決するうえでは、不平等を生み出す社会構造の欠陥に対処するために、「政治的」、すなわち「公共的」なレンズを通してアプローチすることが極めて重要だと気づいたのです。
それにもかかわらず、性暴力をはじめとするジェンダーの問題となると、この「公共」のレンズはあまりにも頻繁に見過ごされ、被害者にただ「もっと警戒するように」と求めるだけのポスターキャンペーンを生み、ジェンダー問題に対する社会の頑なさを強めています。ジェンダー不平等のような社会問題を解決するには、周縁化された人々がこの不公正な社会を生き延びる術を探すのではなく、現在の社会構造そのものに構造的な変化をもたらすことこそが必要だと私は考えています。政策デザインを通じて「公共」のレンズでジェンダー不平等に取り組むというこの試みこそが、公共政策修士(Master of Public Policy)を志す私の関心に火をつけたのです。
これは、GraSPPへの出願の際に提出した志望理由書の冒頭です。
あれから2年近くを経て振り返ると、GraSPPとコロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA)のダブルディグリーという組み合わせは、私にとって完璧な帰結だったと自信を持って言えます。ダブルディグリー・プログラムを通じて、まずGraSPPでの1年目に、法学・政治学・経済学の主要な知識を養うことができました。SIPAでの2年目にはジェンダーと公共政策の専門課程を履修したため、この実践的な知識はいま、さまざまなプログラムや政策がジェンダーに及ぼす影響を診断する力によってさらに強化されています。政策立案の確かな基礎とジェンダー主流化への適性を組み合わせることで、政策の設計・評価・実施に不可欠な次元としてのジェンダーが持つ交差的(インターセクショナル)な影響を照らし出す戦略として、ジェンダー分析を用いることができるようになりました。安全保障から気候変動、さらにその先まで、ジェンダー関係があらゆる社会領域と本質的に結びついていることを踏まえれば、ジェンダーの知見を政策デザインに統合することは、構造的な不平等を永続させないための鍵となるでしょう。学問的な取り組みを通じて獲得した力は、今後私がどのような仕事に取り組むうえでも役立つと確信しています。
とはいえ、出発点となった当初の問いに対する壮大な解決策を見つけた、と言いたいわけではありません。それどころか、私はかつてないほど多くの疑問や難題、ジレンマを抱えてGraSPPとSIPAを修了することになります。こうした難問には、例えば次のようなものが含まれますが、これらにとどまりません――「ビジネスケース」のレトリックを通じてジェンダー平等を推進するという積年のジレンマを、どうすれば乗り越えられるのか? 私自身を含むジェンダーの専門家や研究者は、ジェンダー平等がネオリベラル資本主義へと収斂していくことに加担してこなかったか? 既存の権力関係に挑む構造的変化を、どうすれば実現できるのか? そして最後に、私たちはどのような「ジェンダー平等」を促進しようとしているのか?
これらの問いは、学問と現実世界での応用との間の緊張関係を浮き彫りにするものですが、この2年間から胸を張って持ち帰れるものを一つ挙げるなら、あらゆる学問的な営みに伴う曖昧さ、アンビバレンス(両義的な思い)、矛盾を受け入れることの大切さでしょう。そう、たった2年間で自分の問いに対する完全無欠の解決策にたどり着ける可能性はきわめて低いのです。そう、あなたの経験はおそらくバラとシャンパンに満ちたものにはならないでしょう。そして、そうです、学問的な探究を続けることは、きっと曖昧さや複雑さ、そしてときには妥協の中を絶えず航海し続けることになるはずです。
それでもなお、夜も眠れなくなるような知的な謎と格闘している人がいるなら、大学院での学位取得、さらにはダブルディグリーの機会に挑戦してみることを強くおすすめします。「学ぶ」というプロセスに伴う曖昧さやアンビバレンスを受け入れることで、緊張や葛藤を解きほぐし、変革的な変化を促す創造的な方法を皆で探っていくことができます。結局のところ、学問の役割とは、関わり、促し、確立し、影響を与えることなのですから。だからこそ、誰もが自らの探究心を追い求める機会を与えられることを願っています。その探究心こそが、楽観的な変化の礎になると信じています。